ハイチでは1/3の子供しか学校に通えません。 それを見かねて、私学校セスラができました。 子供いっぱいに。でも学校は狭く、すべてが足りません。

支援をもとめています。


ハイチについて
ハイチ地図 ハイチ共和国について

南北アメリカの間に位置するカリブ海。キューバ、ジャマイカなどと並んで、エスパニョーラ島があります。東側約3分の1を隣国ドミニカ共和国が占め、西側にあるのが「ハイチ共和国」です。

アメリカの奴隷解放に先立つこと数十年、1804年に黒人国家としては初めてフランスからの独立を果たしました。しかし独立以来政治的混乱が続き、現在も国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)によって治安は何とか保たれていますが、失業率も高く、将来を担う子どもたちの教育に関しては、まだまだ不充分な状況です。

セスラについて
セスラの学校 ハイチ共和国、首都ポルトープランス郊外のボンレポスにあるセスラ学校。ここには公立の小学校に通えない子供たち約300人が学んでいます。公立の学校は、ハイチの子どもたちの1/3しか受け入れられないのです。

学校に行けない子どもたちのために、校長先生のマリクレールは自宅をすべて開放してセスラを開校。苦しい経営が続いています。というのは、子どもたちの親の多くが失業しているため授業料がもらえないからです。

マリクレールの妹、山田カリンの案内で2003年三月この学校を訪問しました。カリンから話を聞いてはいましたが、まず小さな子どもの数に圧倒されました。小さな部屋一杯に子どもがぎっしり詰まっている、という 感じ。隣の部屋もまたまた子どもが一杯。庭は木陰がそのまま野外教室です。子どもたちはどこの国でも好奇心で一杯。日本からのお客はとても珍しいらしく大勢の子どもに取り囲まれました。 中に私の手を取って離さない子がいました。

セスラの学校私にはわからないクレオールでしきりに話しかけます。その必死な目に気付いたとき、不意に言葉の壁は消えてその子の気持ちが流れるように私の胸に伝わりました。 私たちは学校がすき。学校を続けられるように助けて!―妹たちを両脇に連れて彼女は訴えていました。「わかった、日本に帰って必ず努力するからね。」彼女の手を握りしめて、約束の言葉が無意識のうちにわたしの口をを ついていました。神さまに言わせられたような気がしました。

名古屋を中心に長年活動を続けている「ハイチの会という団体があります。その経験を学び、多くの方の協力をいただいて、「ハイチの会セスラ」が設立されました遠い国ハイチ、けれど、セスラの子どもたちの輝く瞳、 白い歯のこぼれる笑顔をあなたの心に宿すとき、地理上の距離を越えて、地球という星の同時代を生きる仲間として交流する道が開かれると信じています。 高岡美智子

マリクレール校長からの手紙
マリクレール校長 まだ小さな子どものころから、私は子どもが大好きでした。
そこで私は学校を終えると20歳で教師になりました。

24歳のときリス・ロースと結婚、彼も教師であり地域開発事業家でした。
私たちは経済的理由から学校へ行けない子ども 30人の学費負担のスポンサーになりました。私たちは2つの貧民街を抱えたポルトープランスのデルマス24という地域に 住んでいました。

1986年私たちはこの地域の貧しい子供たちのための学校を、自宅で開校しました。私たちは生徒の家を 一軒一軒訪ねて、親が本当に学費を払えないことを確かめ、その子どもたちを無料で受け入れました。その学校を私たちはセスラ(Centre Education Scolaire Lois Aimery)と名付けました。

ハイチ国内で支援者を見つけることはできませんでしたが、ニューヨークの6人からなる小さなグループが私たちを支援してくれたほか、CEEHが 25人の子どもたちのスポンサーになってくれました。時折は親たちが小学のお金を寄付してくれることもありましたが、それは鉛筆とペンをやっと買える程度のものでした。ほかの全ての経費は、学校のためなら自分の有り金すべてはたくのをいとわないわが夫が負担していました。

1994年4月29日、夫リー・ロースが自動車事故のため死亡、学校経営に大きな打撃をもたらしました。なぜなら彼こそが学校の最大のスポンサーだったからです。

1996年6月、私は学校を閉じる以外にどうすることもできなくなりました。本当に辛い思いでしたが、学校のために私は大きな借金を背負っていました。 私は生徒たちをその区域の一番近い学校に転校させましたが、全ての親が学費を負担できるとは限らず、そういう子どもたちはなんの希望もないまま家に帰ったのです。

同年、私はPauPから5マイル離れたボンレポスに引っ越しました。この区域ではほとんどの子どもが貧困のため学校に通っていませんでした。学校のために借金を 背負う身にも関わらず、私は自分の名前も書けない子どもたちを見過ごすことが出来ませんでした。私は数人の生徒を受け入れました。家があまり広くないので、 当初は本当に少人数のつもりでした。しかし、なんということでしょう、子どもを連れてくる親は毎日毎日増えつづけました。

今生徒数は322名、もはや私だけで教えることは不可能になりました。

2002年1月、私は数名の教師を雇い、本格的な学校の形をととのえました。
現在、学校は10名の教師、事務2名、用務員2名の14名のスタッフがいます。学校を維持するために、私たちは校舎の拡張、教職員への妥当な給与、設備、教材教具が必要です。また多くの親たちは収入がないので、子どもに一日一食を 保障する給食設備を持ちたいのです。教職員の指導研修、子どもたちの野外遠足も実現させたいです。また、親たちが子供の教育を支えられるよう小さな事業を起こせないかということも考えています。 日本の皆さんのご支援を切望しています。よろしくお願いします。

ハイチの会セスラについて
ハイチの会セスラは、ハイチの貧しい子どもたちを、政治や宗教にこだわることなく、心から支援することを目的に活動します。名古屋を中心に長年活動している「ハイチの会」と、目的・志を同じくしています。

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