マリクレールからの手紙


まだ小さな子どものころから、私は子どもが大好きでした。
そこで私は学校を終えると20歳で教師になりました。

24歳のときリス・ロースと結婚、彼も教師であり地域開発事業家でした。
私たちは経済的理由から学校へ行けない子ども 30人の学費負担のスポンサーになりました。私たちは2つの貧民街を抱えたポルトープランスのデルマス24という地域に 住んでいました。
1986年私たちはこの地域の貧しい子供たちのための学校を、自宅で開校しました。私たちは生徒の家を 一軒一軒訪ねて、親が本当に学費を払えないことを確かめ、その子どもたちを無料で受け入れました。その学校を私たちはセスラ(Centre Education Scolaire Lois Aimery)と名付けました。

ハイチ国内で支援者を見つけることはできませんでしたが、ニューヨークの6人からなる小さなグループが私たちを支援してくれたほか、CEEHが 25人の子どもたちのスポンサーになってくれました。時折は親たちが小学のお金を寄付してくれることもありましたが、それは鉛筆とペンをやっと買える程度のものでした。ほかの全ての経費は、学校のためなら自分の有り金すべてはたくのをいとわないわが夫が負担していました。

1994年4月29日、夫リー・ロースが自動車事故のため死亡、学校経営に大きな打撃をもたらしました。なぜなら彼こそが学校の最大のスポンサーだったからです。

1996年6月、私は学校を閉じる以外にどうすることもできなくなりました。本当に辛い思いでしたが、学校のために私は大きな借金を背負っていました。 私は生徒たちをその区域の一番近い学校に転校させましたが、全ての親が学費を負担できるとは限らず、そういう子どもたちはなんの希望もないまま家に帰ったのです。

同年、私はPauPから5マイル離れたボンレポスに引っ越しました。この区域ではほとんどの子どもが貧困のため学校に通っていませんでした。学校のために借金を 背負う身にも関わらず、私は自分の名前も書けない子どもたちを見過ごすことが出来ませんでした。私は数人の生徒を受け入れました。家があまり広くないので、 当初は本当に少人数のつもりでした。しかし、なんということでしょう、子どもを連れてくる親は毎日毎日増えつづけました。

今生徒数は322名、もはや私だけで教えることは不可能になりました。

2002年1月、私は数名の教師を雇い、本格的な学校の形をととのえました。
現在、学校は10名の教師、事務2名、用務員2名の14名のスタッフがいます。学校を維持するために、私たちは校舎の拡張、教職員への妥当な給与、設備、教材教具が必要です。また多くの親たちは収入がないので、子どもに一日一食を 保障する給食設備を持ちたいのです。教職員の指導研修、子どもたちの野外遠足も実現させたいです。また、親たちが子供の教育を支えられるよう小さな事業を起こせないかということも考えています。 日本の皆さんのご支援を切望しています。よろしくお願いします。